考えがループしてしまう

精神分析とか心理分析の本を読み漁って、中途半端な理解で半端な知識をたくさんつけてしまっている。

抑圧だとか、解離だとか、同一化だとか理想化だとか。

投影性同一視だとか。

そのせいなのか、なんなのか、わたしは非常に強い自己愛の持ち主なので、自分のことに対する執着が捨てられなくて、自分が自己愛的なキモチワルい人間なのだと感じる自己嫌悪が消えなくて(自己嫌悪もまた自己愛的)…

その罪悪感や嫌悪感の無限ループに陥って、にっちもさっちもいかなくなってしまうことがよくある。

 

多くはトラウマに関して考えているとき。んなこと考えなくてもいいのに。

マインドフルネスも自分で自力で習得しようとしてみた。こんなに考え続けてしまうのはADHDのせいもあるって先生に教わったから。そして、そのADHDの頭の多動やPTSDの過集中・過覚醒を鎮めるのにはマインドフルネスがいいよって…これは先生とわたしの意見が一致した瞬間だった。(めっちゃ嬉しかった)

でも、自分でやるには危険なんだってさ。

瞑想というのは、自分で自力でやると危ないのだそう。ちゃんとコントローラー/ナビゲーターとなる専門家が自我の端っこみたいなのを握ってくれてないとダメになる、みたいなことかな。それにきっと、わたしは瞑想に入っていけない。目をつむることに対するトラウマのブロックが強すぎて眠ることすら怖いくらいだから。

何度か、目を閉じてやる瞑想にチャレンジしたことがあるのだけど、ちゃんと経験者に教わってチャレンジしたこともあるし、ヨガ教室の先生に少しだけ教わったこともあるんだけど、どれも未遂に終わった。目を閉じて呼吸することがまず無理で、ほんの少しの時間ですぐに体がぞわぞわして息ができなくなってしまう。

 

だから結局、セルフカウンセリング的な意味合いも込めて、本を読むってところに落ち着いてる。河合隼雄先生のユング心理学の本をいくつか読むところから始まって、フロイト精神分析アドラー心理学、小此木先生の対象喪失フロイトの生き様に惚れた)、メラニー・クライン他の対象関係論や色々、愛着理論、転移に関する論文いろいろ、ラカン精神分析についての本、行動分析学の本、認知行動療法の本いろいろ、論文いっぱい、脳科学のこと、お薬のこと…etc

で、結局、これらを読んで自分なりに自分を理解しようとして、ノートに書き出して整理して、だいぶカウンセリング効果はあったのだと思う。自分史的な分析もやったし。

でも。

でも、どんどんこんがらがってる。

たとえばラカンフロイトの『過去はもう無い』っていう言葉。わたしたちは、もはや永遠に失われた〈自分がこどもだった頃〉っていうマボロシの時間の部分に『子供時代の記憶』っていう象徴を置いておくことで、自分が今ここにいるってことを理解するための土台にしてる、て話。時間は常に前向きに流れていて、それは流れる川のようなもので、ただ高いところから低いところへしか流れていかなくて。その川に浮かぶ葉っぱは、もう二度と元あった場所にあった葉っぱになることはない。この葉っぱがどんな葉っぱか?っていうクエスチョンに対して、象徴として『あの時あの木にくっついてた葉っぱ』っていうのを置いておくことで説明とするしかない。

ていう…こういうの、読んでると、わたしのトラウマっていうのも結局自分が自分であるために、とりあえずってことで置いている象徴でしかないのかって。

真実がどうであったかは、その場にいた人間の証言を元にするしかないし、それだって人間の主観なんていろいろだから、本当の本当の本当のところはDNA分析とかしたとしても、完全な真実っていうのは多分永遠に失われてる。だって時間は戻らないから、そのときの現実の瞬間そのものはもはや無いから。

でも、その象徴を置くにいたった『わたし』が重要で、『今のわたし』は〈あのときのトラウマ〉の影響を受けているわたしで。でもでも、さらにその形の象徴をその場所に置いた理由っていうのが実はあるはずで。だって、そうでなければ、他にも怖いことや嫌なことはたくさんあったのに、特にその出来事に怖がってるのはなぜ?ってことになるからで…

それらを突き詰めていくと、つまり、わたしが何を欲しくて何を求めて求められて、求められなかったのか、ていうのは…。お父さんに求められて求められなかった自分ってところに行き着くのかなって。

性的暴行とか性暴力被害っていうのは、裏返して見てみると、ある意味で〈求められた記憶〉だとも言えるんだと思う。対象となった記憶だから。わたしは誰からも求められない…って自分のことを思ってて、そんなはずはない・わたしは求められている、と思おうとして執着していて、わたしは求められるワタシでなければならない、ていう思い込みがさらにあって。

そして、それは〈わたしが〉求められたわけでもなくて、わたしっていう象徴としてのわたしの性っていう。で、だから道具としてのわたしになりたい…もう道具でいい。みたいなところに落ちることがよくある。

もう、こんがらがり過ぎて収集つかなくなってるんじゃ…って思う。悪い自分・恥としての自分を誰かに正してもらいたいのか、なんで治療を受けてるのか、よくわからない。別にわたし病気じゃなくて、こうやって悪い自己愛的な自分の性格を正当化するために色々とかわいそうがってるだけで、過去は過去として受け入れてるんだから、どこも悪くないよ!って本気で思ってる。そしてこれは、先生たちにわりと言ってる。

ここまで長々と自分の思考について説明したうえで言うんじゃないから、やっぱり狂ってるって思われるのかな。わたし病気じゃないと思うんです、だからなんのために病院きてるのかわかりません。でも、なんか来ないといけないんですよね。ごめんなさい、病人じゃないのに時間使わせてごめんなさい…と、こんな感じに、結構毎回言ってる。

なんで病院に来てるのか本気でわからなくなるから、まずそこから許してもらうところから現状報告みたいなのが始まったり。なんで悪いのかわからない・何に困ってるのかわからないっていうのも立派な悩み事ですよって許してもらわないと始まらない。

もう、わたしの自分自身との人間関係からしてこじらせ尽くしてる。

わたしはわたしの、〈わたしが悪いんです、ごめんなさい〉っていうのを手放す必要があるらしい。この罪悪感っていうのが常につきまとっているようで、とってもナチュラルに誰に対しても、自分に対してさえ、ある。わたしが悪いから許してください・いい子になりますからっていう希望を持つことで、相手と関係を保とうとしてしまっている。逆に、わたしが悪いってことじゃなくなってしまうと、相手とつながることができないって思い込んでるらしい。これは、昔々の2歳とか3歳あたりで自分が親から刷り込まれ続けているパターン。

サディストがマゾヒストに、『なに勝手に気持ちよくなってるんだ!ごめんなさいって言え!』ってセリフをよくやるんだけど、マゾ役の人はこれを言われることで快感を得るし、実際にごめんなさいごめんなさいって悦びながら言う。わざわざ『悪いわたしを叱ってください』とか言う。これも状況として理屈として似たようなもんかなって思ってる。ていうか、その辛かった時代の役割をそれぞれが担うことで再現して、今はここに愛があるって思おうとして癒やされようとしてるんだろうな、と思う。(たぶん実際はもっと面倒な感じで、愛はないって言っちゃってて互いに相手に近づけない距離感でいるんだと思う。だからSorMって役割をツールとして使う。諦めきって遠ざかりモードっていうか。)

サディストは〈怖い親〉に同一化した側。マゾヒストの中に幼い自分自身を見出して、過去の親そのものになろうとする。マゾヒストは〈怖い親〉に対する〈従順なワタシ〉の方に同一化して『ごめんなさい・いい子になるから(仮の約束・希望)』っていう鍵を使って繋がろうとする。今現在の怖い親は昔のそれとは違う・この相手は永遠に自分を手放すことのない理想形だ、ていうのをお互いに求めようとするんだと思う。そしてそれは永遠に叶わないから、マゾもサドもくっついては別れて代用品を探し続けるんだ…。

 

ループしてた思考から抜け出して脇道にそれてしまった。

トラウマについて自分が悪い説を考え始めるとキリがないところまでいってしまう。

これはそういうことを書こうとしてたのに…。

性被害にこだわる自分が悪いんだ、本当は自分はお父さん探ししてる男好きの気持ち悪い女で、しかも実際はちっともモテないって気にしてて、その気にしてるのが症状としてトラウマ反応って形で出ている。つまり性的なトラウマ持ちの自分キモい…先生ごめんなさい、生きててごめんなさい。ていう…。しかもすがられる先生が可哀想、最悪だ、もう何も考えたくない、何もかも気持ち悪くて恥ずかしい、と思ってる自分が悪くて恥ずかしい、という自己愛が恥部であるから…さらにコレを認めたくないがために、トラウマにこだわるのは現状について現実的な悩みを持つことを拒否してるからで、、、うんぬんかんぬん…って続いていく。てなって、消えたくなる。完璧な理想形をあると信じて据え置いて、それが正しいのに、あまりにもかけ離れていることが許せなくて、正しい自分になれない自分を罰する自分を公開して罰する…誰も見てないのに、という…。

いつもこんな、コレ以上にもっと広がってる思考の中で、なんで人はものを考えるのか?みたいな、現実とは何か?みたいなとこまで突っ走った挙げ句に、こんなことしか考えられない自分は生きてちゃいけない、死ななきゃいけない、につながってるんだと思う。死なないです、わかってます、ごめんなさい。

存在する意味がほしい。たぶん、今はこれだけなんだ。